2011年10月 私46歳の時、タイですごい洪水があり、
この時、担当していた工場も被害にあい、建物の中で約1.6m浸水しました
水が引くまでに、約2か月
その後、多くの人の努力で、工業団地内で最速の復旧を行うことができました
洪水~復旧までの経緯とその中で経験したこと、学んだことをブログに残しています
工場に電気が通り、生産を再開してから復旧完了って言えるまでの話
振り返って、何をもって復旧完了って言えるのか、よくわからなくなってしまいました
生産開始
2月に電気設備が普及し始め、自社工場での生産を始めることができました
全体の20%ぐらいの回復でしょうか?
全設備が復旧しているわけではなく、まだまだほんの一部です
その後、電気の復旧、さらには事務所の復旧には5か月、8月くらいまでかかりました
生産能力の復旧も、7月くらいまでかかったと記憶しております
当然、工場優先で事務所の復旧は最後
エアコンも効かない会議室で、皆で肩寄せあいながら仕事しました
並行して、お願いして臨時に生産をさせてもらっていた工場からも、設備・治具さらに従業員も引きあげ、5月ごろには全員集結です
協力いただいた各工場の皆さん、心より感謝申し上げます
心配した退職者による人員不足も想定の範囲内で、8割以上の従業員が帰ってきてくれました
契約社員の採用風景です↓
事務所がないので食堂で代用です
メイン以外工場ではこんな光景が続きます↓
部品の磨き作業をしています
製品の出荷検査です↓
倉庫の片隅で
これは事務所の光景です。2階の使っていない大会議室を使っていました
狭い。この端っこに私も座らせてもらてました
本来の事務所です↓
掃除だけして、復旧は最後です
玄関も放置です↓
こんな感じで、日々ユックリ復旧が進み、新築建屋のような竣工式もなく気が付いたら「そこそこ元通り」って感じで、「おわった~~」って感じることはなかったですね
生産は始まったものの
このように、徐々に生産が始まり、出荷もできるようになってきました
そうすると、当然世界中の販売拠点には
「タイの工場が復旧したみたいやで~~~」
という情報が回ります
生産が止まって以来4か月近く、すでに流通の在庫はなくなっています
営業現場ではお客様から「オタク商品ないんやったら取引、終わおらせまっせ」みたいな強烈なプレッシャーを受けています
その状況で「工場復旧」の情報は「よっしゃー」みたいな情報だったことは容易に想像つきます
しかし、復旧したといっても20%程度です
到底、すべての供給に答えることはできません
「いつ、何を、なんぼ出荷できるねん」
強烈な催促です
状況説明しても、「ウチを優先せんかい」
これには参りましたね
最終的には、日本の販売統括部門に生産できる数量を伝えて、優先順位を決めてもらいました
それでも、納得いかない販売部門は直接連絡してきましたけどね
落ち着くには7月くらいまでかかりましたね
精神的に一番しんどかったのはこのころでしょうか
復旧中は工場のことだけ考え、がむしゃらに走りましたけど、出荷が始まるとお客様との関係になるので、いろんな調整が入りホントしんどいですね
一通り出荷はできるようになったが・・
とはいえ、8月頃にはほぼ、要求をいただいた商品をほぼ送り届けることができ、一息つけるレベルにはなっった感じはありました
次に来たのは、「販売が戻らない」
4か月も供給を止めていたので、お客様は他のメーカーの商品を優先的に使用して、当社に戻ってきませんでした
おまけに、復旧に多額の投資をしたために、その負担(減価償却)も非常に重たい
強烈な赤字が続くことになりました
結局、黒字化には洪水後3年近くかかりました
私は、洪水後2年後にその職を離れ、日本に帰任していました
在職中に黒字化できなかったのは残念でした
さらに、困らせたのは資金の問題です
洪水後、数か月で資金も尽き、借金生活に入るのですが、保険金を当てにしてすぐに返せると思いましたが、保険金がなかなか下りない
おまけに赤字が継続
月末の支払いのたびに、経理に「今月は大丈夫かの~」って確認しなればならない状態でした
このとき、恥ずかしながら、初めて事業運営での資金の重要性を勉強させてもらいました
結局、保険金の決着がつき、降りてきたのは翌年の3月
借金も返せて、肩の荷が下りました
保険屋と一番もめたのが、「なぜ設備を修理せず、新規に購入したのか」この点です
「修理で決まへんがな」となんぼ言っても、相手も簡単には折れません
おまけに、相手は香港人、言葉の壁もあって大変
決め手となったのは、1台だけ修理して使っていた設備が、数か月後壊れて使えなくなったことです
「ほらみてみぃ。修理してもつかえんやろ」てな感じで、強気の交渉をしました
最後は、あらゆる手を使いましたけどね
それでも、他よりも早い決着やった方です
保険金の決着がつくまで、建物の周りには使えなくなった設備を放置したままでした
翌年の3月にようやく保険が下り、一息つくことができました
資金が一息ついたところですが、まだまだ赤字です
結局その年の年末に日本に帰ったのですが、結局それまでには黒字化にできませんでした
販売が戻るまでに、さらに1年近くかかり、黒字化は後任に見事に達成してくれました
最後に
8回に分けてタイの洪水の経験を書いてきました
本当に、いろんな人の協力、助けによって無事に復旧できました
タイを離れるときに、いつもは怖い製造のおばちゃん課長が
「洪水の時に、工場が使えなくなり仕事がなくなるかもしれないと、不安で不安でたまらなかった。そのとき、ケビンさんがすぐに『元の地で工場を復旧する。皆で頑張ろう』って言ってくれたのが本当に嬉しかった」
言ってくれました
浸水した私の会社の事務所の入口には、初代社長が残した
「タイ国に喜ばれる存在たれ」
という、額があります
タイを離れるときに、やっと、少しだけかもしれませんが、実現できたかなと思えた瞬間でした
そして、
どの時点で、復旧が完了したのか?
結局、自分として「おわった~~」と思えた瞬間はありませんでした
・工場の稼働が開始できた時
・稼働が100%に戻った時
・お客様に製品が行き渡った時
・最後までかかった玄関が元通りになった時
・保険金が下りてきた時
・黒字化を達成した時(この時は日本に戻ってましたが)
それぞれ、達成感はありましたが終わった感はなかったですね
この7年後、タイで私は、別の会社を閉鎖する仕事をします
この時も、最後、土地建物を売却先に売って出て行っても「終わり」って感じもないままでした
そもそも、仕事って、イベント開催みたいなものでなければ、終わりが明確にならないものかもしれません
気が付けば、終わっていた
結局、これが結論でしょうか?
ここまで、長い記事に付き合っていただきましてありがとうございました
復旧に向け、支援、協力をいただいだ多くの方々への感謝と共に終わりにしたいと思います
ありがとうございました
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